当ブログ『涼しく生きる-スズイキ-』を運営している、りょうたです。
このブログでは僕が、趣味のメダカや自身の気質「HSP」を軸にのんびりした、ムリのない生き方を発信しています。
また過去に会社員をやっていたころは、勤めたいずれの会社もブラック企業でその中で転職活動も経験しました。
それを乗り越えてきた過程や今ののんびりした生活をHSPも絡めて発信しています。
目次
簡単なプロフィール

名前:長池涼太(ながいけりょうた)
1988年(昭和63年)6月22日生まれで、人生の大半は茨城県ですごしています。
- ブロガー
- ライター
- コミュニティスペース「本拠地」の管理人(火曜日と木曜日)
- HSP交流会・勉強会
2018年には、自分が『HSP気質』であることもわかり、HSPと上手く付き合ったり、ときに上手く活かしながら生活しています。
小中学校のときは、同級生や先生からなにかにつけて怒られたりなど理不尽な目に遭ってました。
そんな環境から抜け出すために猛勉強し、高校、大学と進学。
大学受験は失敗し、唯一受かった私立大にしかたなく入学。
モヤモヤしたままの4年間を過ごしていました。
東日本大震災もあって、就職が決まらないまま大学を卒業しました。
その後なんとか就職するも、最初に就職した派遣事務では仕事を覚えるのに時間がかかり「何でこんなこともできないの!」などと罵倒され鬱寸前まで追いこまれ入社2か月で退職。
次の塾講師は人間関係に恵まれつつ、長時間労働で常に体調悪い中の仕事に耐えられず4年やって退職。
そして、次に転職した農業では、「お前は価値のない人間だ!」と言われ、入社わずか3週間でクビになりました。
そこで自信を失いましたが、ふと出会った「ブログ」というものの可能性に賭けてブロガーに転身しました。
- ちょっとしたことでもコツコツ積み重ねることで、たどり着ける場所がある
- ムリはしなくていい。のんびり、ゆっくりと自分の生きたいように生きよう
この2つを自分の中の理念として、日々フリーランス、ブロガーとして活動しています。
理不尽と挫折の学生時代
理不尽な怒りに怯える日々

僕は小学校から中学校にかけて同級生や先生から理不尽な目に遭うことがよくありました。
元々他人にそこまで意見することもなかったため、はっきりしないような姿勢から
「うじうじしてんじゃねーよ!」
と言われたり、それまで話したことのないような女子と席替えで隣になったときは
「何でお前が隣なんだよ!」
などとわけもわからず、怒られることがよくありました。
あとは先生からは連帯責任や他の同級生のとばっちりで怒られることもありました。
突然このように怒られることもよくあったので、内心「いつ怒られるか…」とビクビクしながら過ごしていました。
思えばこの頃からまわりの目を過度に気にするようになりました。
中学生のときはテニス部でしたが、2年生になって新しくきた顧問がかなり厳しい先生で、ミスをしたりなにかにつけて、とにかく怒られました。

またその顧問の空気感が同級生などにも伝染し、同じように同級生にも辛く当たられる日々を過ごしていました。
「ミスすんなよ!」(連帯責任で怒られるため)など怒りに怯え、ただただプレッシャーのかかる日々でした。
こんな環境から脱したいと思い、高校は環境をガラリと変える意味で、同じ中学の人があまり進学しない高校を志望校としました。
ただお金のかかる私立だったのもあり、親からは「特待生で受かったら良いよ」と言われたので、猛勉強しました。
「この環境から抜け出したい」
「もう理不尽な目に遭いたくない」
とにかく当時の環境が嫌だったので、ひたすら勉強しました。
その努力のかいもあって、約束通り特待生で受かり、親を納得させて進学することができました。
高校に入ると人間関係や環境ががらりと変わり、楽しく3年間を過ごすことができました。
高校の友人や恩師とは、30歳を過ぎた今でも交流のある大切な人たちです。
受験失敗という挫折

大学受験をするということで、地元の国公立大学を志望校にしていました。
僕の志望校だった学科は当時は2次試験がなかったため、センター試験が勝負でした。
高校3年間もひたすら勉強してきたので、受験のために頑張ってきました。
が、センター試験は大失敗しました。
高校でセンター試験を受験した人が合同で答え合わせをしていましたが、あまりのショックに珍しく人前で泣きました。
努力が報われなかったということがとても悔しかったです。
「3年間頑張ってきたのに…」
「僕はこの程度の力だったのか…」
思えばこれが人生で初めての大きな挫折でした。
結果としては、滑り止めで唯一受かった都内の私立大学に進学しました。
ただ、元々浪人して地元の国公立大学に再チャレンジと思ってたのに、親がすぐに都内の物件を探してしまったため、流れで仕方なく進学することになってしまいました。
正直、特に行きたくもない大学に行ってしまったので、「早く4年間終われ!」と思いながら、日々の大学生活を過ごしていました。
実は某大手のファミレスでのアルバイトにチャレンジしたのですが、あまりの厳しさにわずか3日で辞めてしまいました…。
これがトラウマにもなり、それ以降大学生の間は一切バイトをせず、元々の貯金と奨学金で4年間をしのぎました。
そのため、バイトやサークルもやらず、ただただ家と大学の往復だけでした。
それでも、卒論などで実験やデータをふんだんに使ってたという点では、ある意味大学の4年間がブロガーになる基礎を作ってくれたのかなと思ってます。
ブラック企業での暗い日々
最初の就職。プレッシャーから鬱寸前に
大学を卒業して就職するところでしたが、東日本大震災とぶつかったのもあり就職が決まらないまま卒業してしまいました。
当時は茨城県と派遣会社で未就職者向けの支援事業をやっており、僕は派遣会社の契約社員という立場で、就職活動をすることになりました。
その就活の中で見つけたのが、地元の建設会社の事務職。
選考を受けて通過したので、その会社で派遣事務として働くことになりました。
ただ、入ったはいいけどすぐに結果を求められるような職場で、
- 「なんでこれができないの?」
- 「同じこと聞かないでしょ!」
と言われ、「そんなすぐ覚えられないよ…」と思いつつプレッシャーの中で仕事をしていたら、入社から1か月で体調を崩し会社を休みました。
病院で診察してもらったら、「過敏性腸症候群」と診断され、ストレスで胃腸が炎症を起こしているとのことでした。
(過敏性腸症候群は基本的に完治はしないそうで、これ以後もストレスが溜まるとすぐに腹痛を起こす体質になってしまいました)

そこからも頑張って仕事はしましたが、やはり上司からのプレッシャーは収まらず、体もメンタルも限界に達したため、派遣会社に申し入れて2か月で退職することになりました。
その後、就職活動を再開し、内定をもらえた会社で塾講師として働くことになりました。
塾講師。上司に恵まれたが体が悲鳴をあげた日々

塾講師は最初アルバイト扱いでしたが、がんばりも認められて4か月の試用期間を経て正社員になりました。
塾は4年やることになりますが、派遣事務と違って教育体制や人間関係が良かったから続けられたと思います。
入社したらいわゆる「メンター」(研修担当)の人がつくので、仕事の相談などはその人にするということができました。
僕の研修担当になった人は、10年その会社で働いていて、かつ他の業界も見ていた方なので柔軟に物事を考えられたり、視野も広く人として尊敬できる方でした。
もちろん、厳しいことを言われたこともありましたが筋が通っていて理不尽なことは決して言わなかったので、「この人についていこう」と素直に思える人でした。
また、この方をふくめて仲の良い同僚や先輩たちと休みの日にフットサルやバスケをするなど人間関係も非常によく、派遣事務と違ってギスギスした空気感はあまりありませんでした。
ただ辛かったのが年を追うごとに増える仕事量と激減した休日でした。
休みについては正社員1年目は100日ほどで残業も多少あるくらいでしたが、最後の方には年間休日80日ほどでかつ残業も膨大だったため体にかなりの負担がかかりました。

3年目に入った頃は、その激務から起きあがることができないくらいに体調が悪化してしまい、病院に行ったら
「自律神経に異常がある」と言われ、安定剤などの薬を処方されました。
薬は退職まで毎日のみ続け、薬がないと体調の維持もできないような状態でした。

正直3年目に入るあたりで「辞める」ことについては頭にありましたが、
- 石の上にも三年、つまり3年は働かなければいけない
- 当時持っていたあるクラスがかなり良い子がそろっていたので、その子たちの卒業は見届けたい
という思いもあったので、そのクラスの卒業に合わせて4年やってから辞めようと思いました。
(ちなみにこのクラスは最終年に人事異動で担当を外れました)
そして僕のいた会社は、毎年秋に来年度続けるか辞めるかの意思確認を取っていたのですが、まずは研修担当の上司に退職の意思を伝えました。
上司からは、
- 自分のやりたいことにチャレンジすることはすばらしいこと
- やるなら20代のうちにやっておいた方が良い
など悪いことは特に言われず、むしろ応援してくれることを言ってもらえました。
その後会社側にも正式に退職の意思を伝え、正社員としてちょうど4年で塾を退職しました。
農業。自分の存在と価値を全否定された

塾講師を辞めた当時の僕は「自然に関わる仕事をしたい」という思いがあり、その方向で転職活動をしていました。
その中で大学でも専攻していた「農業」をやってみようと思いました。
問題としては当時車の免許が「オートマ限定」だった僕ですが、農業は「マニュアル免許必須」の求人が多かったこと。

そこで僕はもう一度教習所に行き、6万円をかけてマニュアル免許を取得(限定解除)をしました。

ちなみにあらかじめオートマの免許は持っていたとはいえ、限定解除には4万円ちょっとかかりました。
転職の為にはやむを得ませんでした。
加えて弟が農業高校出身だったため、教科書など一式を借りて予習も入念にしました。
そこまでして農業方面で転職活動をして、地元の農業法人に採用されました。
ただその農業法人もかなりハードルは高かったようで、初日から
- 「(仕事の)スピードが遅い!」
- 「なんでこれできないの⁉」
などプレッシャーになることをたくさん言われました。
僕としては「せっかく見つけた転職先だから粘らなきゃ!」という思いもありましたが、2週間こなした段階で社長からは「今のままでは正規雇用はキツイ」とキレ気味に言われました。
それでもなんとかねばって仕事をしていたのですがある日、仕事でミスをして上司を怒らせてしまいました。
そして社長から「もうお前にこの仕事は任せられない」と怒られ、その日は昼から夕方までひたすら野菜を入れるダンボールの組み立てを延々としていました。
そして、仕事が終わった後、社長に呼び出されクビを宣告されました。
クビだけではありません。
30分ぶっ続けで説教されていましたが、
「おまえは価値のない人間だ」
これだけはものすごく印象に残りました。
おそらくこの言葉は一生忘れることはないです。
こうして僕は入社からわずか3週間で会社をクビになり、無職に戻ってしまいました。
無職に戻ったことで転職活動を再開したわけですが、「おまえは価値のない人間」という言葉。
これが頭にすごく残っていて、心を完全に折られた僕は転職活動に身が入りませんでした。
社長に言われたことが強烈に頭に残ってしまったために、自分が会社で働く姿というのがまったく想像できなくなってしまいました。
そのためただハローワーク行って、形だけの転職活動をする日々。
先の見えない日々が続いていました…。
ブロガーになってからの変化
ブログに全てを賭けてブロガーに転身した
そんな気力を無くした日々を過ごしていく中で、ネットサーフィンをしているとあんちゃさんという女性のブロガーを発見しました。
あんちゃさんも元々会社員をやっていましたが、仕事をしていく中で自身の想いを優先して、ブロガーに転身して生計を立てていました。
当時は他にも会社員経由でブロガーに転身した人が多かったのもあり、それぞれがすごく楽しそうにやっているのをネット上で目の当たりにしたので、そんなブログに可能性を感じてブログを始めました。
ブログ開始2か月後にはあんちゃさんが東京でイベントをやるということで、ホテルを取ってまで行ってみました。

そこでの話が僕にはすごい響き、「僕もブロガーとしてやっていこう!」と決意しました。
他の人と違う道に行く勇気をもらいました

ちなみにこのイベント以後、ハローワークなどにはまったく行かなくなり、実質転職活動を取りやめることになりました。
それくらいブログに賭けたし、覚悟を決めました。
「会社員が無理なら、それ以外のやり方で僕は生きていく」
僕はそう思いました。
もちろん、当時はブログの専門的な知識はなかったので独学でしたが、覚悟を決めたため努力することだけは徹底しました。
感謝される経験を積み重ね、自信を取り戻す

ブログを始めたものの、今と違い当時は茨城県内にブロガー仲間がいなかったため一人でブログを書く日々でした。(Twitter上での交流があったくらい)
そんな中ブログを始めた翌年には、当時茨城県坂東市にできたシェアハウス「リバ邸茨城」(現いろり亭-空-SORA)に住むことになりました。
そこでは当時のブログ収入だけでは心もとないのもあり、たまに単発の仕事をこなしました。
高齢者の多い地域だったため若いというだけで重宝され、祭りの屋台から保育園の掃除、パソコンの使い方がわからない高齢の社長の代わりにパソコン作業など幅広い仕事の依頼を受けこなしました。
初めてやることばかりとはいえ特別の技能はいらなかったので、とにかく一生懸命やりました。
依頼者と直接やり取りをすることも多かったですが、その中で「感謝される」という経験を積み重ねることができました。
これにより、自信を徐々に取り戻すことができ、「僕も仕事で人の役に立つことができるんだ」と思うことができるようになりました。
というより、今思うと会社員の時の仕事で人から感謝されるということがほとんどありませんでした(笑)

そうして、会社をクビになったことで失っていた自信を取り戻し、「地域の役に立ちたい!」という新たな目標を見つけて地元の水戸に帰還しました。
幸せを感じれるようになった
本拠地という場所を見つけた

そして2019年でブログを始めて3年経ち、6月からは個人事業主(フリーランス)にもなりました。
今は水戸にあるコミュニティスペース「本拠地」の火曜日と木曜日の管理人もやっています。
本拠地は、僕がリバ邸茨城から水戸に帰ってきた2018年の年明け当時に本拠地が立ち上がるということを知りました。
同時に本拠地の運営者(ギルドマスター)のソルティーさんもブロガーであることを知り、3月~5月の2か月間はソルティーさんに集中的にブログを教わり、当時月7000アクセスだったのが5月の段階で月3万アクセスまで伸ばすことができました。
そこから当時ソルティーさんが運営していたブログのオンラインサロンにも入り、そこでブログの実力をさらに伸ばし、秋からは僕も講師側に回ってサロン生にブログを教えたりもしていました。
そして2019年に入ってからは、それまでの努力が実を結び、4月には月間10万アクセス、5月には月間20万アクセスを記録することができました。

収益としても、Googleアドセンスと物販(Amazon、楽天)を合わせて月間5万円ほどをブログだけで稼ぐことができました。
現在は、ここまで培ったブログの技術(SEO、SNSの運用など)を踏まえて、「ブログステップアップ」という新たなブログのオンラインサロンを立ち上げて、ブログ初心者にアクセスアップや収益増加の技術を教えています。
また、本拠地も2018年の4月の創業から通いつめて、2019年の2月からは火曜日と木曜日の管理人になり、本拠地によりかかわるようになりました。
本拠地にいるときは、自分のブログやライター記事を進めたり、たまにYoutubeの撮影もやってます。
たまにブログ仲間が本拠地に遊びに来ることもあるので、そのときはSEOなどブログ談義をしていることもあります。
りょうた
自分がHSPだと分かった
2018年の9月、Twitterを見てる中でたまたま『HSP』という気質を知りました。
音や匂いなど五感の刺激に敏感だったり、人間関係に疲れやすいいわゆる「繊細」な人。
⇩僕がHSPと自覚したキッカケの記事
参考 HSPは混乱してマルチタスクに向かない。その理由と対策 | HSPの移住女子ライフHSPの移住女子ライフまだ世間にはHSPがそこまで知られておらず、いわゆる「障害」や「病気」というくくりに入れられることもあるそうですが、僕自身はあくまで自分の一部としてとらえてますし、
- 気遣いができる
- 細かいことに気がつく
- リスクに気づきやすい
などメリットとして活かせる部分もたくさんあります。
HSPであることを悲観するのではなく、「HSPを活かしてどうするか?」ということを考えてほしいと思ってます。
僕のブログでもHSPをどう活かしているか、もしくはどういうときにデメリットになりやすいかをリアルに発信しています。
HSPを発信しているブロガーとしては数少ない顔出している人なのでリアリティはかなりあります。
ちなみに茨城県で表立ってHSPの発信をしているのは、今のところ僕だけです。
最近では、2020年8月3日に茨城県のラジオ局FMぱるるんの「rain drops radio」というラジオ番組に出演し、HSPのことを話しました。
ラジオ番組でHSPについて取り上げるという例はなかなかないですし、茨城県では初の試みだったので貴重な経験ができました。
また、2020年9月19日には毎日新聞で、HSPに関する僕のインタビューも掲載されました。
新聞でHSPのことを大々的に取り上げたのは、おそらく初めてなのでこれからよりHSPが知られればと思います。
参照:「気にしすぎ」違和感の正体は…「HSPは欠点じゃない」ブロガーの体験
茨城県においては初めてHSPを発信したり、HSP交流会を開催するなどの実績もあるので、最近では「茨城県のHSP第一人者」とも名乗り、HSPの発信やイベントを行っています。
楽しい、幸せと思えている

こうして、ブロガーとしてフリーランスとして楽しくやっています。
この間に自信もついてメンタルの状態も好転し、フリーランスになったことで無職というあやふやではなく立場もしっかりしました。
今なら胸を張って言えます。
「会社員のときに比べたらはるかに幸せ」
自分の生きたいように生きていますからね。
まだ発展途上だけどムリなくのんびり生きていく

とはいえ、今はまだ発展途上と思っています。
まだ会社員時代の収入には届いてないですし、フリーランスなってからも日が浅いです。
だからこそ、ここからの地道な努力が重要だと思っています。
ブログの執筆や本拠地管理人としての活動など、大きなことはできなくても小さなこと、自分にできることを着実に積み重ねています。
そしてなにより、これから自分がどんなふうに成長していくかも楽しみです。
とはいえ、決してムリはしない。
ムリに忙しくなっては、ブラック企業にいたときと変わりませんからね。
ゆっくり、のんびりやる。
でも地道にやって、確実に成果は出せるようにします。
最後に

学生時代から会社員のころは本当にいろいろありました。
僕はすごい仕事ができたり、すごい能力の高い人間ではありません。
むしろ仕事も出世や昇給することがありませんでしたし、会社をクビになることもあった人間でした。
そこで悲しい思いもしました。
(もちろん家族や友人にも助けられました)
そんなつらい時期を乗りこえたからこそやることはしっかりやり、ときにはゆるくのんびりと生きる。
そんな僕の生き方や発信を見て、少しでも前向きになったり、自分のやりたいことにたいして少しでもアクションを起こしてもらえたらと思います。
そして僕もそういう状態になれるようなブログを発信していきます。
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ここでHSPを正しく理解したり、フリーランス仲間を作れればと思います。